色々あって生まれは同じなのに別会社同士になった路線たち

生き別れ、というのは人間でいえば、肉親などが色々な事情から離れ離れになることを言いますが、生き別れになるのは何も人間だけの話だけではないんです。鉄道路線にも生き別れになるパターンが存在します。と言っても物理的に離れ離れになるのは無理なので、この場合は出身を同じとする路線同士のどちらかが、所属の会社を変えた事を指します。今回はその中でもとくに有名な例を3つほどご紹介します。

生き別れその1:JR太多線・名鉄広見線(東濃鉄道)

多治見と可児・御岳を結ぶ鉄道線を開業

多治見から可児を経て美濃太田へ至る路線、JR太多線と、可児駅で接続する名鉄広見線は、かつては東濃鉄道のもとで、多治見から可児北郡を結ぶために開業した一つの路線でした。正確には、多治見から可児(新可児)までの区間と、新可児から御嵩までの区間がそれにあたります。開業した当初は線路の幅が762㎜の、所謂軽便鉄道規格の路線でした。なお、多治見駅付近を中心にバス路線を展開している名鉄グループの同名の会社とは無関係です。

高山線と中央線の連絡線として国に買収され、太多線になる

この路線は最初から、将来多治見から美濃太田を結ぶ路線を建設する必要が生じた場合に、国による買収を認めることを条件に建設されていました。その為、美濃太田を通る路線、高山本線の建設が進むに連れて、この東濃鉄道の路線が買収されるのは時間の問題でした。そして予定通り、全線開業から6年後の大正15年に、多治見から広見の区間が国鉄太多線として買収されました。広見から美濃太田までの区間の開業とそれに合わせた1067㎜への改軌はその2年後となります。

そして、残った広見から御嵩の区間は新たに設立された東美鉄道として再出発しました。後に東備鉄道は広見(新可児)へと延伸してきた名古屋鉄道に買収されて現在の名鉄広見線の形となります。ちなみに明知駅からかつて分岐していた八百津線は、この東美鉄道時代に開業したものです。

片や本線同士を結ぶバイパス線、片やICカードも導入されぬ閑散線

これは何もこの2路線だけに言えたことではないのですが、同じ鉄道会社だった時期よりも別会社同士の路線の時期の方が長すぎて、今ではかつて同じ路線だったと言われてもにわかに信じられないくらい両線は様変わりしました。国鉄に買収され、後に民営化を迎えてJR東海太多線となった区間は、中央本線と高山本線を結ぶバイパス線としての役割や、乗り入れる形にはなりますが岐阜県を横断する路線としての役割を担っており、一時はホームライナーも運転されるほどの重要路線となっています。

そして、東美鉄道として再出発し、これまた買収されて名鉄広見線となった広見(新可児)ー御嵩間は、犬山・名古屋方面への直通列車が設定されたことにより八百津線ともども電化されますが、名鉄の経営が芳しくなくなってきた1984年ごろから、名古屋方面への直通がなくなった八百津線とそれに直通する広見線の列車が気動車化され、その17年後に八百津線は廃止されてしまいます。名鉄は残った広見線新可児ー御嵩間も廃止する考えだったのですが、沿線自治体が同区間の赤字補填をするという条件で今日まで維持されています。しかし2022年現在に至ってもICカードが導入されない所を見ると、決して油断はできないというのが正直な所です。

生き別れその2:近鉄生駒線・京阪交野線(信貴生駒電鉄)

京都から生駒・信貴を目指した路線

関西、東海地方にまたがる日本最大の私鉄である近畿日本鉄道は、現在の形になるまでに何度も鉄道会社の吸収合併を繰り返しています。生駒から王寺を結ぶ奈良県完結の近鉄生駒線も、元をたどれば信貴生駒電鉄(建設当初は信貴生駒電気鉄道)という会社が開業させた路線でした。ちなみにかつて信貴山下で接続し、今では廃止されている東信貴鋼索線も同じ会社の出身です。

野心が強い関西私鉄の例にもれず、奈良県内で終わるつもりなんて毛頭なかった信貴生駒電鉄は、京都府の枚方から私市を経由して生駒を目指す路線を建設することにし、まずは私市までの区間を開業させました。これが後の京阪交野線の原型となる路線です。

越えられなかった生駒山地

ただ、ほぼ同時期に発生した昭和恐慌の影響や、大阪から信貴山方面へ直結出来る大阪電気軌道(大軌)信貴線とその子会社の信貴山電鉄(現在の近鉄信貴線・西信貴鋼索線)の開業により、どうしても生駒か王寺で乗換えを挟む形になる信貴生駒電鉄は次第に劣勢となり、生駒山地を越える路線を単独で建設するほどの余裕はなくなっていきました。結局、この鉄道は昭和16年までには大軌の傘下に入ることになります。

枚方ー私市間は下記の項の通りですが、生駒ー王寺間は戦後もしばらくは信貴生駒鉄道の路線として存続していました。そして、現在の近鉄田原本線を運営していた大和鉄道との合併を経た上で、1964年に近畿日本鉄道に会社ごと吸収され、今現在の近鉄生駒線の形になりました。

近鉄との合併の際に枚方ー私市間を切り離し、京阪交野線になる

その際、枚方から私市までの区間は枚方で接続していた京阪電車に委託することになりますが、その時から京阪の直営という訳ではなく、僅か5年の間だけ京阪の子会社として設立した、交野電気鉄道の枚方線として運営していました。そして戦後、この区間は改めて発足した京阪電車の交野線として、現在の形に落ち着くことになります。私市から生駒までの未開業区間は、戦時中に敷設免許が失効し、新たに敷設しようという動きも今現在に至るまで起っていません。

生き別れその3:JR香椎線・西鉄貝塚線(博多湾鉄道汽船)

石炭運搬路線と福岡市内方面の旅客線

日本海軍が自軍の軍艦使用に適している無煙炭が取れる炭田を調査した結果、福岡県北部に位置する糟谷炭田が最適だという事が分かりました。その糟谷炭田からの石炭をこれまた福岡県北部の西戸崎に建設した港へと運ぶために建設されたのが、博多湾鉄道糟谷線、今のJR九州香椎線となる路線です。

本来なら糟谷炭田のみならずその先の筑豊炭田までの延伸も考慮されていましたが、会社創立の年がよりによって昭和恐慌の年だったため、筑豊炭田への延伸は出来ずに終わっています。

そしてこの糟谷線の和白駅から貝塚・箱崎を経由して、福岡市内方面への旅客輸送を行う目的で博多湾鉄道汽船の貝塚線、現在の西鉄貝塚線の原型となる路線が開業しました。その一年半後に残りの和白ー宮地岳の区間も貝塚線として開業しています。

西鉄に買収されるも、炭田の関係で糟谷線が買収、国鉄香椎線に

両線はそれぞれ違う側面を持ちながらも同じ鉄道会社の元で運営を続けてきましたが、1942年に施行された陸上交通事業調整法に対応する為、この両線を運営する博多湾鉄道汽船の他5社が合併し、ここに九州最大の私鉄、西日本鉄道が誕生したのです。

ですがそのうち、糟谷炭田を目的地としていたこの糟谷線と、同路線に宇美駅で接続していた宇美線(筑前参宮鉄道)は、この炭田が日本海軍にとって重要な炭田であることや、両線は国鉄と同じ軌間(1067㎜)であることから、戦時体制の発足に伴って糟谷線は香椎線に、宇美線は勝田線へと名を変えて国鉄に買収され、現在の路線の形になったのです。なお勝田線は戦後40年で廃止され、香椎線は日本でもあまり類を見ない両端盲腸線となりました。

JRと西鉄、それぞれの会社でどこか浮いた存在の両線

さて、今でこそ別々の会社同士となったわけですが、どうもこの両線はJR、西鉄それぞれでどこか浮いた存在という点で奇妙な共通点が見られます。JR九州はJRグループ全体で見てもかなり個性が強いのですが、その中でも香椎線は特に尖っており、上記のような両端盲腸線という特殊な属性であること、福岡都市圏に近い路線でありながら未だ全線非電化となっていること、世界初の交流蓄電池車を若松線(筑豊本線)と共に導入したりなど優遇されてるんだかされてないんだかよく分からない扱いを受けています。

一方貝塚線も、同じ西鉄の路線で唯一狭軌路線であること、大牟田線をはじめ他の西鉄線と全く接続していないこと、買収以来幹線ではないとして戦後すぐの時期を除きずっと大牟田線の中古があてがわれていることなど、やはりこちらもどこか浮いた存在です。というか、こちらの方が扱いが酷いと個人的に思います。

貝塚から博多方面の軌道区間が廃止されて以来、貝塚で市営地下鉄に乗り換えなければ直接博多に行けなくなってしまったので、あまり業績が芳しくなく、2007年には西鉄新宮から津屋崎までの区間も廃止となっています。(了)