
特に都市部に住まう人にとって、電車に乗ると言う行為はあまりにも自然に日常生活に内包されている。だが、その意味合いについて考えることはほぼないだろう。
我々が電車に乗る際、必然的にドアをくぐることが要求される。鉄道営業法第三十三条は「列車中旅客乗用ニ供セサル箇所ニ乗リタルトキ(三項)」に「罰金又ハ科料ニ処ス」としており、コンテナ車といった物理的に乗れそうな車両であっても乗ってはいけない根拠となっている(ちなみに、鉄道営業法には窓からの乗降に関しての言及はない。明治時代の客車では窓越しに人が行き来することが考慮されていなかったのだろうか)。また、同二条は旅客が「列車運転中車両ノ側面ニ在ル車扉ヲ開キタル」ことも取り締まっており、ドアの開閉という行為に法的な拘束力があると言える。
つまり、鉄道車両における乗降用ドアという存在は、利用者にとって他のどんなものよりも価値のあるものであるはずだ。ドアによって空間は車外・車内≒客室に二分される。ドアが閉まることで客室は外界から遮断され移動が開始することを示唆し、ドアが開くことは目的地への到着、鉄道会社が支払われた運賃に対しコミットしたことを意味する。いわば、ドアの開閉は契約の履行と達成を示すためのツールという訳だ。

そんなドアだが、都市圏や新幹線においては様子が変化しつつある。ホームドア(可動式ホーム柵)の浸透だ。ホームドアによって車体は覆い隠される。特に関東では車体にラインカラーやコーポレートカラーを纏うことが多く、車体色に対し識別機能などの意味が付与されているから、こうした色に持たされた情報を一部ないし全て奪ってしまうことはそれなりに問題があるように感じる。
こうしたことを考えていたところ、弊学の白山キャンパス近隣には東京メトロ南北線が走っているのを思い出した。南北線といえばフルスクリーンホームドアで知られており、地下鉄でのホームドア設置の先駆けでもある。通学に利用しているにも関わらずまじまじと眺めることがなかったこともあり、これを機にホームドアと南北線のドアを見つめ直してみた。

先述したように、首都圏の多くの路線ではラインカラーが設定されており、南北線を走る9000系には車体にエメラルドグリーンの帯があしらわれている。リニューアル車では風のように波打った帯に変更されており、ホームドアのガラス越しでも強い主張を感じられる。ドアが開き白い化粧板の貼られた車内が見えてくることで、「車内」に入れるのだという感覚を得られる。しかし、ホームドアに囲まれた南北線の駅では車体のイメージが頭に入る前に車内へと足を踏み入れるので「電車に乗っている」という感覚が奪われやすい、と個人的には思う。

次は多数ある南北線の直通先の一つ、埼玉高速鉄道(SR)の所有する2000系だ。SR自体が南北線の延長部として建設された意味合いが強いためか、青とエメラルドグリーンで南北線とで印象を合わせているようだ。多くの点で9000系との類似性が感じられるが、ドアの素材の違いや車内の化粧板の有無のせいか9000系よりもギラついていて金属質に感じられる。

東急目黒線からは5080系・3020系のほか、こちらの3000系が直通してくる。このうち3000系と5080系は赤と黒に近い濃紺の帯を纏っており、南北線とも(もう一方の乗り入れ先である)都営三田線とも違うイメージを持っている。東急のコーポレートカラーである赤はアウェーの地ではどこか悪目立ちしていて、ドア越しでもそれとなく疎外感を覚えさせる。一方で近年登場した3020系は白と水色を基調としていて、青の三田線・緑の南北線の間を取ったような雰囲気でもある。
以上の3車種は纏う帯色は違えど、実際に駅で見た時に感じる印象は大きく変わらない。それはひとえに「銀色」だからだろう。アルミとステンレスで材質は違えど、ダークグレーのホームドアに覆われた無彩色の車体はとても無機質だ。それでも、電車の到着とともに暗かったトンネルが照らされていくのにはある種の安心感もある。普段意識することはないが、案外銀色は明るいのだなと思う。無論、下地処理の違いによって暗く光沢のある仕上げにする場合もある

そんな中、去る3/18に東急新横浜線・相鉄新横浜線が全線開業し、相模鉄道の21000系も南北線へと訪れるようになった。JRや東急に直通する相鉄車はいずれもYNB(ヨコハマネイビーブルー)と呼ばれる濃紺で全身を包んでおり、乗り入れ先でも自身のアイデンティティを存分にアピールしている。
しかし、チューブのように狭く暗い南北線においては恐ろしく視認性を欠いている。ホームドアが開く直前まで、窓からこぼれる明かりが無ければ電車の入線とも思えない、というのは言い過ぎだろうか。銀色の電車たちはチューブを行き交う箱のようだが、21000系はさながら闇のかたまり・吹き抜ける黒い一陣の風だ。それでいて、ドアが開くと目に入るのは温かみのある光なのでギャップでクラっとさせられる。電車らしさのない外観から安心感のある車内の温度差が、かえって「これは電車なのだ」という感覚を取り戻させてくれると言えるかもしれない。ともかく、ドアの開閉によってここまで印象を変える電車はなかなかないだろう。
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ドアが開き、閉じる。何気なく過ぎていく日々の中で繰り返されるドアの開閉という儀式には、我々が思っているよりも特別で神聖な意味がある…というのは大袈裟かもしれない。それでも、ここまで読んでいただいた方には是非ドアについて注視する習慣をつけて頂ければ幸いである。乗り過ごしなどを防げるかもしれない。
それでは。
