神戸市東灘区の閑静な住宅街を通る、阪急電鉄、神戸線。その途中の岡本~御影間に、撮り鉄には有名な撮影スポットがある。
「有馬道踏切」、またの名を「村山カーブ」。

神戸線を撮影したことがある方や、そうでない方でも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。
電車は御影駅を出発すると、台車を軋ませながらS字にカーブをして岡本駅に向かう。
阪急神戸線は全線で115km/h運転をしているのだが、この区間に限って最高速度が90km/hに制限される。
辺りを見渡しても障害になりそうな物は無いのだが、なぜこのカーブが生まれたのか。
その背景には関西経済界の権力者が関わっていた。
村山カーブができたワケとは?
阪急電鉄の全身である箕面有馬電気鉄道は1916年(大正五年)、神戸線を敷設するにあたり、
大阪(梅田)~神戸(三宮)間をできるかぎり直線で敷設しようとしており、当初はこの区間も現在のようにカーブではなく直線で結ぼうと計画していた。
そのため計画では朝日新聞社社長、村山龍平の「邸宅庭を突っ切り敷設する」予定であった。
しかし計画を聞きつけた村山氏と近隣住民達が神戸線の地下化、または経路の変更を求める、反対運動が起こった。
この反対運動は村山氏が阪急電鉄社長、小林一三に直談判しに行くほどにまで発展した。
またその反対運動には村山氏の他にも関西経済界の重鎮である者達も多く加わったため、そのような者たちを蔑ろにすることができず、阪急側は要請を受け入れることとなった。
そして神戸線の経路変更の末に、村山邸を避けるようにしてできたのが「村山カーブ」という訳である。
神戸線のネックポイントはこうして出来上がったのである。
阪急はなぜ神戸線を地下化しなかったの?
阪急側は当初、神戸線を地下化しようと計画変更をしたが、調査を進めていくと阪急電車が走る住吉川の一帯は地質が固く、とてもではないが工事を行うことは出来ず、地下化は困難であるということが分かり地下化は断念せざるを得なくなったのである。
村山カーブ、その後
神戸線開業後はこの区間は最高速度60km/hであったが、後年、線形改良工事により最高速度が90km/hにまで上がった。それでもこの区間は未だ神戸線のネックになっている。
後年、小林一三は「意気地がなかったであらうと、愚痴ざるを得ない (原文)」(逸翁自叙伝から引用)と自身の著書にそう記した。
最後に
今回、初めて記事を執筆してみたのですが、いかがでしたでしょうか。
面白い、タメになったのであれば、筆者としてもとても光栄です。
阪急電鉄は過去の歴史から現在に至るまで、調べれば調べるほど面白い会社ですので、是非皆さんも調べてみてはいかがでしょうか。
最後まで閲覧していただき、誠にありがとうございました!